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全ての人に共通する「人生の目標」である「幸福」の話

「目標」という言葉を知らない日本人はいないであろう。あなたの「目標」は?と聞かれれば、各々別々の言葉が返ってくるであろう。彼女が欲しい,億万長者になりたい,足が速くなりたい...といった風に。

 

しかし、この世界において全ての人間に共通して持つ「目標」がたった1つ存在する。老若男女,人種,貧富等一切関係はない。それも単なる「目標」では無く、一生をかけて追い求めていく「人生の目標」である。それは何か? 「幸福」である。私も、就職関係の研修で「目標」は何か?という話になり、それは「幸福」であるということを聞いたことがある。抽象的ながら、「幸福」というワードはそれほどまでに重要なのである。

 

今回は、全ての人に共通する「人生の目標」である「幸福」について様々な視点で語っていきたいと思う。

 お品書き

 全ての人が無意識に追い求めている「幸福」

昔読んだ「14歳への君へ」という本に次のようなことが書いてあった。

そうだ。「幸福」だ。すべての人が共通して求めているものは幸福だ。素晴らしい楽しいことを求めるということは、幸福を求めるということなんだ。素晴らしい楽しいと思われることは、人によってそれぞれ違う。だけど素晴らしい楽しいことを求めるということは、そのことによって幸福を求めているということに他ならない。すべての人は幸福になることを必ず求めている。幸福になることを求めない人、幸福を求めない人は一人としていない。どうだ、君は幸福になりたいとは思ってはいないか。「14歳の君へ」p169-170 

 「 幸福になることを求めない人、幸福を求めない人は一人としていない」。確かに当たり前の原理であるが、日々の生活に忙殺されると忘れられがちである。専門家でないので断言できないが、日々の生活で、楽しいことなど1つもない,早くあの世に行きたいという状態の場合「幸福になること」を忘れている可能性はありうるだろう。このような場合は、私の範疇を超えており心理カウンセラーや精神科医の出番であろう。

 

では、幸せなど求めてない不幸になりたいんだという人がいた場合はどうだろうか。それについても、著者はこう答えている。

ちょっとひねくれて、僕は別に不幸でもいいよ、なんて言っている君、不幸を求めるという仕方で、やっぱり自分は幸福を求めているということに気が付かないか。 p170

 「僕は不幸でもいいよ」というのはマゾヒスト的な考え方ではあるが、これもある形で幸福を追い求めているというのである。つまり、どのような人でも「幸福」というものからは逃れられないのである。無意識に「幸福」というものを追いかけているのだ。それは画面のあなたも、この私も同じである。

 

全ての人が無意識に追い求める。それが「幸福」の大きな特徴である。

 

そして、「幸福」というものにはこれ以外のもう1つ重要な特徴がある。次は、それについて語っていきたいと思う。

 

本記事の引用の中心はコチラ

14歳の君へ―どう考えどう生きるか

14歳の君へ―どう考えどう生きるか

 

 

「幸福」語りの難しさ~定量化できぬ「幸福」という尺度~

「幸福」というものには、もう1つ大きな特徴がある。それは、「幸福」というものが何処まで行っても主観的なものに過ぎないことである。すると、どういうことが起きるか。傍から見て恵まれている環境であっても、本人が「幸福」を感じていないという例が日常茶飯事に起こるのだ。あなたも、このような光景を見たことがあるだろう。

例えばありがちなシチュエーションとしては、次のようなことがある。

豪華な家に住み、豪華な服を着ている人が幸福かというと、必ずしもそうではない。そういう人の心は、実はとても不幸で、満たされていないことがほとんどだ。なぜなら、お金持ちになるためには、人と必ず競争しないといけない。人をけ落とし、人の裏をかき、人の裏をかかれないように絶えず用心し、得たお金を失わないかと不安になり、寄ってくる人は金目当てで無いかと常に疑う。 p172

 確かに、この記述を見る限りであるとちっとも「幸福」ではなさそうである。が、ややこしいのは豪華な家に住んでいて、豪華な服を着ている人がやっぱり「幸福」である場合があるのである。さもなければ、誰も豪華な家に住んで、豪華な服を着ないであろう。わざわざ、「不幸になります」という看板が立ててあっていくバカは怖いもの見たさ以外ではいない。第一、消費意欲が低下して深刻な不景気であろう。

 

結局、「幸福」の尺度はお金や彼女といった定量的なものでは測れないのである。では、「幸福」の尺度は何か? 

なぜなら、幸福とは、職業や生活のことではなく、心のことだからだ。心が幸福になるのではなければ、人が幸福になることは、絶対にできないからだ。p172

 「心」である。

そして、幸福になる条件としては

幸福な心を手に入れるためには、幸福な心になればよい。人は、幸福な心になりさえすれば、誰も必ず幸福になれるんだ。 p174

 ということだ。『こんなの答えになってない!』と思う気持ちもごもっともであろう。

 

それもそのはず、「幸福」というのは人類にとって残された難題の1つであるのである。幸福の測り方について、最後に考えてみたいと思う。

 

終わりに:幸福の測り方

 かのホリエモンも勧める『サピエンス全史』の下巻第19章は、「文明は人間を幸福にしたのか」と「幸福」をテーマにして書いている。本書は有用な知見が数多くあるので、以後の記事でも度々引用したいが、19章に関して「幸福の測り方」というものが述べてあったので引用していきたいと思う。

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

 

 

生物学者の主張によると、私たちの精神的・感情的世界は、何百万年もの進化の過程で形成された生化学的な仕組みによって支配されているという。他のあらゆる精神状態と同じく、主観的厚生も給与や社会的関係、あるいは政治的権利のような外部要因によって決まるのではない。そうではなく、神経やニューロンシナプス、さらにはセロトニンドーパミンオキシトシンのようなさまざまな生化学物質からなる複雑なシステムによって決定される。 「サピエンス全史下巻」p236

結論から言ってしまえば、 幸福な心を持たなくても幸福になる生化学的なシステムを医学的に操作すれば、「幸福」になるのであろう。しかしそのようなシステムが技術的に可能になれば、麻薬みたいに乱用されることは間違いない。という訳で、「幸福」生化学療法は実用化されないと考える。

 

 

(2837字)